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三澤憲治の演出日記
◇俳優歴13年、演出歴19年の広島で活動した演出家、三澤憲治の演出日記 三澤憲治プロフィール
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2006年1月30日(月)

 「上もしかなん。『わが御心ながら、あながちに人目おどろくばかり思されしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになん。世にいささかも人の心をまげたることはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひしはてはては、かううち棄てられて、心をさめむ方なきに、いとど人わろうかたくなになりはつるも、前の世ゆかしうなむ』とうち返しつつ、御しほたれがちにのみおはします」と語りて尽きせず。
【現代語訳】
 「お上(帝)も同じことで。『じぶんの心から出たとはいえ、人目を驚かすくらいに更衣を激しく寵愛してしまったのも、前世の定めでふたりの仲が長くは続かないだろうと思っていたので、今となってはせつない因縁だった。じぶんは少しも世間の人を歪めたりしたことはないと思ってきたが、ただこの更衣への寵愛のためにだけ、多くの人から負わなくてもいい恨みを負ってしまい、その果てに、こうして独りとり残されて、気持ちを静めることもできないまま、ますます人目が悪く、かたくなになってゆくのも、更衣との前世からの結びつきが懐かしくてならない』と何度もおっしゃっては、涙にひたってばかりいらっしゃいます」と命婦は語って言葉も尽きない。

 『源氏物語』のこの箇所は、演劇人として大変興味がわくところだ。
 帝が身分や後ろ盾のない更衣を激しく寵愛し、見境もなくのめりこんでいったために、宮廷の女御やたちの反感や恨みや嫉妬を浴び、それが更衣を衰弱に追いやり、はては死なせてしまった。これが認識の順序だとすれば、上の引用文では帝の認識は逆になっている。前世に更衣との仲は長くはつづかないと定められていたからこそ、自分は周囲の思惑など顧みず、ひたすら更衣を寵愛するはめになった。これが帝をとらえている認識である。前世の定めがはじめにあり、その定めが無意識の世界に浸透し、じぶんの行動をうながした。だからじぶんはあんな異常なほど更衣を愛してしまったのだと。
 もしわたしが『源氏物語』を舞台化するなら、帝だけでなく登場人物の行動を支配し、遠隔操作みたいに制御する、この眼には視えない〈認識の装置〉をビジュアル化することに心血を注ぐだろう。


2006年1月28日(土)

 『源氏物語』は、光源氏という生まれついた身分、地位、容貌、心ばえなどがすべて揃った理想の人物を設定し、かれが女性たちとの遍歴を重ねるという貴種流離譚の物語だ。
 きょうやっと冒頭の〈桐壺〉の巻のテキスト化を終えた。
 この〈桐壺〉の巻の物語の構成は、家柄や後ろ盾がない病弱な更衣から生まれた第二の皇子を、外戚の威力もない無品の親王にしておきたくない帝が、源氏の姓を与えて臣籍にうつす。いわば主人公光源氏にまつわる生誕のエピソードだが、ここにはこの物語のスタンスが暗示されている。
 そのひとつは「前世の定め」ということだ。帝が更衣を激しく徹底的に愛したのも「前世の定め」であり、そして死なせてしまったのも「前世の定め」であり、この更衣から光源氏という容貌優れた利発な子が生まれたのも「前世の定め」であり、帝が更衣の死後に更衣と生き写しの藤壺の宮を愛したのも「前世の定め」であり・・・というようにだ。そしてこの「前世の定め」は、さらに光源氏が母と生き写しの藤壺の宮を恋い慕うというところまで発展させてこの巻を終える。

2006年1月25日(水)

 『伊勢物語』の現代語訳が終わったら日記文学の予定だったが、『源氏物語』への欲求を抑えきれず、きょうからテキスト化することにした。昨夜は酒もほどほどにし、たっぷり睡眠をとったせいか体調はいたって快調で、朝から読みはじめて夕方にはS社の2巻目まで読むことができた。1日2巻ならS社のものは6巻あるから3日で読破できる。この調子だと、当初『源氏物語』のテキスト化に半月かかるだろうと予測していたが、一週間くらいでできそうだ。
 『源氏物語』はやはり素晴らしい。50の坂を越えて読み直すと、その素晴らしさが実感となって迫ってくる。春に芽生え、夏を越し、秋に衰弱し、冬は死にいたる。季節の移り変わりと同じように物語は進んでゆく・・・。

2006年1月22日(日)

 きょうはレッスンの後、HASのメンバーが手伝ってくれて、すべての事務所整理が終わった。いよいよ明日から新生N・A・C広島のスタートだ。事務所の規模は縮小したが、今N・A・C広島にはHASのメンバーをはじめ、児童部からジュニア部、青年部、熟年部まで個性的な人材が豊富で頼もしい。かれらがなによりも今後の活動の支えになってくれるだろう。
 それはそうと、HASのメンバーからわたしの日記を読んで、HASのレッスンは万葉集などの古典を勉強することになるので、かなり高度なものになるのでは? という質問を受けた。きっとこの日記を読んでる人もそう思っているかもしれないので、この場をかりて応えておく。
 「そんなことは絶対ない! やさしくて、楽しいだけだ」と。
 思えば、古典の詩や物語を敬遠する人は、あの学校での古典文法に辟易した人たちではないか? わたしも古典文法は苦手だった。だからHASでは文法なんかぶっ飛ばし、演劇人としてのわたしの勝手な現代語訳でレッスンを進めていく。あの橋本治さんの桃尻語訳の『枕草子』のようにだ。なぜなら、今の人が恋をしてるように、平安の昔の人も恋をした。その恋愛感情には今も昔もなんら変わりがないのだから・・・。

2006年1月19日(木)

 やっと事務所の整理から解放され、仕事ができる環境が整った。さあ、一週間の遅れを取り戻さなくちゃ。
 これまでいわゆる洋物の芝居ばかりやっていたので、日本とは縁遠かった。しばらくぶりに日本の古典を紐解いたら、若い頃とはかなり様子が違っていた。わたしの若い頃といえば、I社の古典全集で勉強したものだが、今はS社の古典全集が群を抜いている。上段に語句の解説、中段に本文、下段に現代語訳と、至れり尽くせりだ。編集にはずいぶん手間取ったと思うが、読者ニーズに応える画期的な全集といえる。
 早く竹取物語、伊勢物語、蜻蛉日記を終え、このS社のもので源氏物語を読み直したい・・・・・・与謝野晶子とどんなふうに違うのかな?

2006年1月18日(水)

 東京地検特捜部が〈風説の流布〉と〈偽計〉の疑いでライブドアを家宅捜索した。時代の寵児に早や暗雲が立ち込めてきたというのか?
 気になったのは〈風説の流布〉という言葉だ。〈風説の流布〉といえば、『竹取物語』がその始原であるかもしれない。かぐや姫に求婚する5人の色好みは、みんなが風説を語るし、言葉そのものにも〈風説の流布〉が随所にある。

 ●かの鉢を捨てて、またいひけるよりぞ、面なきことをば、「はぢをすつ」とはいひける。
 ●皇子の、御供に隠したまはむとて、年ごろ見えたまはざりけるなりけり。これをなむ
  「たまさかに」とはいひはじめける。
 ●ある人のいはく、「皮は、火にくべて焼きたりしかば、めらめらと焼けにしかば、かぐや姫あひたま
  はず」といひければ、これを聞きてぞ、とげなきものをば、「あへなし」といひける。

 太字の言葉(観念語)は、当時慣用されて流布していたものだろう。それに嘘話として起源をつけたのである。これは『竹取物語』が仮構性の産物であることを明確に示している。

2006年1月17日(火)

 ビビガールの最良の選択は、そのまま事務所の片隅に飾ることだった。いくら紙粘土で作った人形とはいえ、顔だけを切断したら、その切断面から血が流れてきて・・・と変な想像をし、その幻想を拭いきれなかったからだ。
 保存すると決めたら、心が落ち着き、何十年ぶりに積年の汚れをていねいに拭いてやった。右手がもげているように、月日が経てば、次第に体中のあちこちがひび割れていき、やがては今の面影をすべて失ってゆく・・・それはそれで仕方のないことだ。ビビガールの終焉を見届けるのも、作り手の義務なのだから・・・
 相変わらず、きょうも一日中事務所の整理に追われた。きょうは芝居の小道具を和物、洋物の使途別に区分けした。これはズボラなわたしとしては画期的なことだった。 

ビビガール 小道具
ビビガール 区分けした
小道具

◆画像をクリックすると、拡大画像がご覧になれます。

2006年1月16日(月)

 きょうも一日中事務所の整理に追われた。でも整理というのは楽しい。演出に通じるものがある。限られたスペースにOA機器や机や椅子や棚などを運び、それらをどこに配置するか? これが楽しい! 出来あがったとき、その物たちがまさにそこに置かれるべくして置かれている、というようにセッティングできたら、演出家としては合格だ。
 今いちばん悩んでいるのは、『モモ』のときに作った人形たちを壊すかどうかだ。4体作ったが、特にビビガール(人形の名前)は心血を注いで作り、じぶんでは魂を入れたつもりなので愛着が深い。唐十郎さんの状況劇場の主演俳優であった四谷シモンさんの人形に刺激されて作ったんだが・・・。ビビガールはシモンさんとちがって、公演用だったので紙粘土で作った。今では10数年の歳月を経て、足の爪先や手首が無残にもげている・・・せめて顔だけでも残してあげたい・・・うん、これが最良の選択だろうな。 

2006年1月15日(日)

 HASのテキストは、きょうから物語篇に突入した。最初は『竹取物語』だ。人口に膾炙した言い方をすれば、かぐや姫の物語だ。『竹取物語』は、日本最古の物語とされ、また最初期のかな文学のひとつである。
 『竹取物語』は貴種流離譚の典型的な作品だ。かぐや姫とはもともと神性をもちながら、地上に降りてきた貴種であり、これが俗界の人々と関係をもったうえに、最後にはそれを振りきって、ふたたび神性界にもどるという構成になっている。『竹取物語』には、構成の緊密さと、書き言葉としての高度さがあり、長篇の典型的な構成をなしている。これが平安前期(?)に書かれたとは、ただただ驚くばかりである。
 桐朋学園の演劇科時代、田中千禾夫ゼミで、この『竹取物語』がレッスンの教材になった。千禾夫先生(当時わたしたちはそう呼んだ)は、新年の歌会初めの朗誦のように語れと言われ、実際の舞台では、語りの語尾を極端に引き伸ばし、黒のTシャツにGパン姿で演じたことを想い出す。
当時は現代の俳優が、なぜそんな古臭い朗誦法に逆戻りしなければならないのかと疑問に思い、いい加減にやり過ごした。
 ところが卒業後しばらくして、この『竹取物語』こそ劇発生の根源になるものだということを知った。千禾夫先生とわたしの『竹取物語』への関心領域はちがったが、先生が『竹取物語』を俳優教育の俎上にのせたことには、演劇人としての同質性を感じてしまう。

2006年1月14日(土)

 今、3月に立ち上げる『俳優のスペシャリスト育成講座』のテキスト作りに追われている。以前から他人の作ったテキストに限界を感じ、独自のものを作ろうと思っていたが、ついつい10年以上の歳月が経過してしまった。
 この『俳優のスペシャリスト育成講座』では、まず第一に
〈ことば〉の実感レッスン、つぎに〈からだ〉の実感レッスン、そして最後に〈こころ〉の実感レッスンをしていくことになるが、特に最後の〈こころ〉の実感レッスンはとても厄介だ。日本の劇の成立(つまり劇の歴史性)を分らなければ実感できるものではないからだ。
 わたしが学んだ桐朋学園演劇科は、当時一流の講師陣を揃えていて、その人たちはなるほど優れていた。だが、各講師はそれぞれの専門分野のことは教えてくれたが、演劇とはどういうものかは、かれらの教えからはわからなかった。ある人はブレヒトを、またある人はフランス古典劇を、さらにある人は歌舞伎を教えてくれたが、演劇の種類が多くなったぶん、よけいに迷路を彷徨うだけだった。
 演劇とはいったいなんだろう?
 これをわかりやすく解き明かすのが、HASで使用するテキストだ。
今、〈ことば〉篇を終え、〈こころ〉篇に入り、やっと詩篇が終わったところ。古事記、日本書紀、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集を例に取り出して金槐和歌集を一応締めくくりにした。
 何十年ぶりに実朝の歌に接し、若いときの感動が蘇ってきた。実朝は素晴らしい! 冷徹なまでに素晴らしい! そこで一首。
 
 玉くしげ 箱根の海は けゝれあれや 二山にかけて 何かたゆたふ
 

2006年1月13日(金)

 事務所を6階から地下に移動するので、きょうは一日中大掃除。荷物を運びながら6階と地下を何度も往復したので多少筋肉痛だ。それに、強力洗剤でステンレス家具をゴシゴシやったので右手の人差し指が痛い。キーボードを中指で打つほどだ。
 それにしても広島の野球少年たちはなんとタフなことか。わたしのきょうの運動量の10倍は運動しても、帰るときはベースランニングやダッシュを何本もこなす。いったいあのエネルギーはどこから来るのだろう? 聞いてみたいが、聞いても教えてはくれないだろう。
 労働の甲斐あって、新しい事務所はたくさんの人が訪れても、楽しく過すことができる〈和〉のスペースになった。魔除けにじぶんが作った面と髑髏を飾ったので、こどもたちは怖がるかもしれないけれど・・・。

2006年1月12日(木)

 きょうシード・ナッシング・シアターを解体した。不評だった客席も取り除いて、はじめて気持ちがスッキリした。芝居が駄目だったといわれるより、お客様から「お尻が痛かった」と言われたほうが堪えた。
 このようにお客様には迷惑をかけたが、このシード・ナッシング・シアターの最後のロングラン公演はわたしにとっては有終の美を飾ることができた。
小林由芽、高畑雄大、桐原慶二、畑田清彰、杉田直美らの素晴らしい人材が育ったからだ。かれらは3月開講の『俳優のスペシャリスト育成講座』でさらなる演技力の向上に努める。
 野球で、ピッチャーが投球練習をする場所をブルペンというが、このブルペンの語源は“牛の囲い場”だそうだ。江夏豊氏はこのブルペンを、殺気だった、目をギラギラと輝かせながら準備をする空間といっている。
 俳優にとってレッスン場は、まさにブルペンだ。言語・身体・精神を鍛えるブルペンだ。3月からまた俳優たちとの格闘がはじまる!
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