MAC Misawa Actors Company
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俳優の創造、ドラマの創造、そして進歩の創造!
俳優の創造 ドラマの創造 進歩の創造
 書物は、至上の書物あるいは最高の書物でも、ただひとつの絶対的な真理を埋蔵することは、先験的にできない。  
 その理由は、どんな書物も書物であるかぎり、表側からの反復・霧散・逼迫と裏側からの障害・空洞・異種または同種交配の視線によって、はじめてこの世界に存在できるからだ」      
 『言葉からの触手』 吉本隆明
 この世界思想の先端をいく思想家の言葉に触発されて、シェイクスピアの『リア王』を1605年頃に書かれた「書物」としてとらえ、その歴史的段階を現在の視点から考察する。
 つまり『リア王』という物語をそのままお客様に提示するのではなく、この物語をまず「現在」というフルイにかけ、そのフルイにかけて選別した現在も有効なものと無効なものとをお客様がダブルイメージできるようにし、なおかつお客様それぞれがこの物語を起点にして未来の像(イメージ)を想い描けるようにする。
 これが広島と大阪で上演した『リア王』公演のモチーフでした。
挑戦1
原文に忠実なのではなく
シェイクスピアの言いたいことに忠実
挑戦2
関連書物から
俳優の表現形式と歴史性を決定する
挑戦3
アナクロニズムを解決して作品を重層的にし
さまざまな時代性をだす
挑戦4
あえて見えなくすることによって
そのものの本質を写しだす
挑戦5
フーコーの考察 刑罰、狂気、類似から
新しいシチュエーションをつくる
挑戦6
過激な物語性を排除して
未来の像(イメージ)を想い描いてもらう
●歴史的な起源であり、それから原型であるところまで遡ってみると本性がつかまえられ、また本性のところまで遡って把握されたものは本質的なものだ。
アダム・スミス
●〈公〉よりも〈私〉の方が大切なのだという思想を媒介にしない公思想は、どんな装いをこらしても人間を奴隷にするだけだ。
吉本隆明
●『リア王』は、日本の『竹取物語』や『源氏物語』と同じ、貴種流離譚をモチーフにしている。
●シェイクスピアの時代には、芝居は太陽のあたっている昼日中にやるのがふつうで、現代なら照明や装置が担う役割は、すべて俳優の台詞に負わされていた。
●セルバンテスやシェイクスピアでは、狂気はつねに、それには救いがないという点で極端な位置をしめている。狂気の通路のさきには、裂け目、そこからさらに死しか存在しない。
ミシェル・フーコー
●中世では〈類似〉という概念が「知を構築する役割を演じてきた」。書物の解釈を方向づけたのも〈類似〉なら、目に見えるもの、目に見えないものはすべて〈類似〉という視点からとらえられていた。「大地は空を写し、人の顔が星に反映し、草はその茎のなかに人間に役立つ秘密を宿していた」のだ。人間が思いうかべたものは、つねになにかの模写であり、言語は「人生の劇場、世界の鏡」であった。
ミシェル・フーコー
●人間というものは、現にもっているものに加え、さらに新たに得られるという保証がないと、現にもっているものすら、保有しているという気分になれないものである。
マキアヴェッリ
●臣が君と意見を異にする場合、彼の取るべき忠義の途はリア王に仕えしケントのごとく、あらゆる手段をつくして君の非を正すにあった。容れられざる時は、主君をして欲するがままに我を処置せしめよ。かかる場合において、自己の血をそそいで臣の誠実を表わし、これによって主君の明智と良心に対し最後の訴えをなすは、武士の常としたるところであった。
新渡戸稲造
●『リア王』の道化には、人間の残酷さを知りつくした絶望が宿っている。だから笑いより、沈黙を駆り立てる。
●門をつくり、鍵をかけて、人の出入りを規制する思想は、いつかは破産する。だれでもが入ったり、出たりすることが自由にできる〈ひろば〉、これが理想の思想だ。
●リアの怒りは、傲慢で、憎らしく、たけだけしい。だが悲しく哀れでもある。なぜ? それはリアの怒りの言葉が母の不在から語られるからだ。リアが怒れば怒るほど、母の胎内に還 りたいというイメージを喚起させられる。あの羊水が破れるまえの、透明な秩序の海へ。おそらくここに還らなければ、リアの怒りはおさまらないだろう。
●ベラスケスの『ドン・セバスティアン・デ・モーラ』。この道化の〈苦悩のまなざし〉 には、作者の残酷さを透徹した愛がある。
●愚者にとって〈愚〉はそれ自体であるが、知者にとってく〈愚〉は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である
吉本隆明
●封建時代の権カ者にとって、罪人の苦痛の叫びと流れる血はけっして恥ずべきものではなく、権力者の力の誇示にほかならなかった。
●子どもに親和、摂取、安定、睡眠を授けるのは母親だが、人間にとってたいせつな〈自己相対化〉を教えるのは父親の役目だ。
●貧乏に不思議な魔力などあるはずがない。貧乏は精神を矮小化し、ただ不幸だというだけだ。
●世代交代。それは旧い慣習や常識が解体し、その結果が大衆の精神的、経済的負担を軽くして、前よりも生活しやすい効果をもたらしたとき、はじめて意味がある。
●『リア王』、重力の悲劇。およそ低劣な行為と名づけられるものはどれもこれも重力にもとづく現象である。だいいち低劣な行為という表現がそのことを示している。
シモーヌ・ヴェイユ
●門の外は現世的な〈他界〉にほかならない。日本でも村落の老人は60歳を越えると生きながら〈他界〉へ追いやられた。
●わたしたちは、苦しみとか、貧しいとか、虐待されたとかいう〈欠如〉から生みだされた思想しか持ちあわせていない。今こそ「過剰や格差の縮まりに対応する」まったく新しい、普遍倫理や普遍宗教を必要としている。
劇的リアリティがあるから面白い!
劇的リアリティ@
 歌舞伎の伝統だの、常識などを そのまま鵜呑みにするのは危険だ。
 なぜなら、歌舞伎の様式化は 時として段取り芝居に堕落し、芝居としての劇的リアリティがなくなってしまうからだ。
 歌舞伎だろうがなんだろうが、芝居は劇的リアリティがなければ面白くない。
 河竹黙阿弥は 弁天小僧の出を次のように書いている。

(花道より弁天小僧高髷の島田、振袖、屋敷娘のこしらえにて、 南郷力丸侍のこしらえにて、付き添い出で来たりて)
弁天 これ四十八、浜松屋というのはどこじゃぞいの。
南郷 つい向こうに見えます呉服屋でござります。
弁天 婚礼の仕度じゃということは、必ず言うてたもんなや。
南郷 申してもよいではござりませぬか。
弁天 それでもわたしゃ恥ずかしいわいな。

 ここでの劇的リアリティは 17歳の武家屋敷の娘の 美しく成熟したからだと 結婚を間近に控えた思春期の娘の 無邪気な恥じらいである。
 この劇的リアリティをまず獲得しなければ 浜松屋の場は成立しない。そして、この美しい娘のセクシュアルなイメージは 桜の刺青をした少年の 不思議に美しい夢の世界へと転化するのである。 
劇的リアリティA
 浜松屋の主人幸兵衛に店の支配を退役させられた番頭の 与九郎が、店の金を盗んで逃げようとすると、奥から
「どろぼうどろぼう」  
 と言いながら小僧が出て来る。与九郎はびっくりして、
与九 ええ、今のは何だ。
小僧 猫が干物を引いたのさ。
与九 疵持つ足でびっくりした。  
 と胸を撫でおろし、小僧を打つ真似をする。この見得、題目太鼓にて道具廻る。  

 これが原作の浜松屋の場の終わり方だが、 現在の歌舞伎ではこれはカットされて、 まったく違うように書き換えられ、番頭と小僧の 茶番劇が演じられてから道具が廻る。
 わたしたちの公演では、浜松屋の場を一幕として 完結させるので、原作を踏襲しつつ、与九郎の 行動をもっと拡張することによって浜松屋という呉服店の劇的リアリティを表現することにした。
 写真の

反物、銭箱の鍵、アジの干物

反物
銭箱の鍵
アジの干物

 も劇的リアリティを表現するに 欠かせない道具である。
劇的リアリティB
 浜松屋の場で花道を使うのは、弁天小僧と南郷力丸である。
 二人の花道を使った「出」は、原作通りに演じてなんの問題もないのだが、二人の「引込み」は、原作通りに演じるわけにはいかない。  
 原作を見てみよう。  
 浜松屋を退散するときに、弁天小僧は上着と帯を、南郷は袴と大小というように、それぞれに荷物を担いでいるので、

弁天 なにしろこいつが、邪魔だな。
南郷 一緒にして坊主持ちにしよう。
弁天 それがいいそれがいい。


卜門附の合方にて弁天一つに結わえて肩にかけ行きかけると一人の按摩出て来る。

弁天 そりや按摩だ、そっちへ渡すぞ。(ト南郷に渡す)
南郷 べらぼうに早いじやあねえか。

 ト按摩花道にて忘れ物をせし思い入れあって、後へ引き返す。

南郷 やあ、後へ帰ったからそっちへ返すぞ。
弁天 いめえましい按摩だな、(ト肩へかけ新内を語り)あんまにむごいどうよくな、

 卜南郷口三味線にて花道へ行きかける、按摩また取って返し花道にて行きあい、舞台の方へ行く、弁天気づかぬ思い入れ。

按摩 あんま針。(トこれにて弁天心づき)
弁天 や、あんまか。(ト振り返る)
南郷 新内で川流れだ。
弁天 ええいめえましい。

 ト両人よろしく花道へ入る。  

 この二人の軽妙なやりとりは江戸時代の観客なら笑うだろうが、現在の観客は笑わないだろう。いや笑わないどころか、按摩を
「盲人に対する蔑称」  
 と受け取って、不快な思いをするにちがいない。
 そこでわたしたちの公演では、この花道の場をすべてカットして書き直し、原作にはないもう一つの劇的リアリティを付け加えた。これで身障者の方を傷つけることなく、お客様誰にも大いに笑っていただけると思う。
 花道とは、
「役者を近くで見て、その華やかな気分を味わいたい」
 という観客心理から成り立っている。その願望にも応えたい。
劇的リアリティC
 原作では、弁天と南郷が浜松屋にやって来る前に、二人の頭である日本駄右衛門がやって来て、
「北条家への進物じゃが、濡珍、緞子の類、織物を見せてくりゃれ」
 と言うと、浜松屋の幸兵衛が出てきて、
「幸い京都からただ今着きました品がござりますれば、取り出し御覧に入れましょう。しかし、少々手間どりますれば、ここは端近、奥の間でしばらくお待ち下さりませ、お茶を一服差し上げとうござりまする」
 と言うので、駄右衛門は幸兵衛に連れられて奥へ行く。
 こういう前置きを黙阿弥は書いているから、弁天と南郷が百両を騙し取って帰ろうとするときに、駄右衛門が奥から出てきて、
「お侍、ちょっと待ってもらいたい」  
 と呼び止めても、つじつまが合うのだが、現在の歌舞伎上演ではこの前置きをすべてカットしているからこの時の駄右衛門の出が唐突になってしまう。
「それなら原作通りに駄右衛門の前置きを上演すればいい」
 ということになるのだが、ことはそう簡単にはいかない。原作を見てみよう。  

 花道より駄右衛門羽織袴大小にて若徒作平、中間を伴い出で来り、

駄右 こりゃ作平、浜松屋と申すは向こうの店じゃの。
作平 さようにござります、近年の仕出しにござりますが、ことのほか繁昌いたしまする。
駄右 いかさま、左様相見ゆる。
作平 ご進物の品々は、あれにてお求め遊ばしますか。
駄右 されば、何か珍しき品もあろうかと存じて。
作平 さようなら、ご案内いたしましょう。

 花道より弁天小僧、高髷の島田、振袖、屋敷娘のこしらえにて、南郷力丸侍のこしらえにて、付き添い出で来りて、

弁天 これ四十八、浜松屋というのはどこじゃぞいの。
南郷 つい向こうに見えます呉服屋でござります。
弁天 婚礼の仕度じゃということは、必ず言うてたもんなや。
南郷 申してもよいではござりませぬか。
弁天 それでもわたしゃ恥ずかしいわいな。
南郷 言うて悪くば申しますまい。(ト門口へ来りて)さあお嬢様お入りなさりませ。

 駄右衛門が進物の品を、弁天が婚礼の品を探しに来たという違いはあるが、その出の言葉のやりとりといい、これ以後の手代たちとのやりとりといい酷似している。
「同じことを二度するな」
 が芝居の鉄則であり、似たようなシーンを二度も見せられるのは、観客にとってはたまったものではない。それに、駄右衛門を先に登場させたのでは、せっかくの高島田に振袖姿の弁天の出が新鮮味を失うことになる。こういうわけで駄右衛門の出はカットされるていると思うが、だからといってカットしたままでは、先ほど述べたように駄右衛門の出が唐突になってしまう。
 そこでわたしたちの公演では、次のようなせりふを付け加えた。  

 太介が奥の部屋から戻ってきたので与九郎が、

与九 太介どん、奥のお方はお気に召されたか。
太助 それはもう、旦那様が京から届いた新荷を解かれましたもんで。
与九 そうか。
佐兵 (奥の侍の真似をして)「値はなにほどでも苦しゅうない」とは豪勢なお侍さんだ。
与九 あのような大口のお客様ばかりだと店も楽だがねえ。

 これで劇としての筋道は通り、駄右衛門の出もリアリティを持って観ていただけると思う。
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