あえて見えなくすることによって
そのものの本質を写しだす
 ローマのある貴族の家に、ひとふりの剣が所蔵されている。
 この剣は、その美しさから、何世紀もの間剣の女王″といわれてきた。そこにほどこされた金銀の細工の見事さは、有名な金細工師エルコレ・デ・フェデーリーの作と鑑定されている。細工のデザインは、ミケランジェロによるという説をとる人もいるし、ラファエッロの作品だとする人もいる。しかし、これが作られた時期から見て、おそらくピントゥリッキオの手になったものと思われる。 この剣は、その凝った装飾からも、人間の熱い血を吸うために使われたのではなく、儀式の時に持たれたものか、それともただ単に、依頼主が時折手に取って楽しむために作られたのであろう。 これが、チェーザレ・ボルジアの剣である。
(塩野七生「チェーザレ・ポルジアあるいは優雅なる冷酷」)

 この情緒をそそる書きだしを読めば、だれもがチェーザレ・ボルジアの剣をじっさいに見てみたいとおもうだろう。剣の愛好家なら、すぐにもローマに飛ぶだろう。 わたしたちは、華麗で複雑な装飾がほどこされた剣を見ると、その美しさにこころをうばわれ、身分社会の〈威厳と威嚇〉を見るのを忘れてしまう。
 剣というものは、たとえそれが儀式用であろうと、鑑賞用であろうと、人間の熱い血を吸うために使われるものにかわりない。ロマンティシズムはよくこれを無意識に隠す。
 剣は人間を殺傷する道具だ。剣は、国家が軍隊を持つかぎり存在しつづける。だから剣は、現在も形をかえて生きつづける。銃剣、拳銃、ミサイル、化学兵器、原爆として。人間はこれらの武器に美を求め、ことのほか愛玩する。原爆雲が立ちのぼる光景にも、美 しさを見てしまう。倒錯いがいのなにものでもないが、人間はひとふりの剣からこの壮大な像を手にいれてしまった。本質はここにある。
 剣は、人間の限りない欲望の象徴だ。人間はこれから剣に頼らないで生きていかなければならない。『リア王』はこれを教えてくれる。 だからそれを観客に伝えたいのだが形ある剣を使って殺陣や戦闘シーンをみせると、観客は剣の魅力に惹かれてカタルシス(浄化作用)を感じてしまい、送り手の思惑とはちがってしまう。ではどうしたらいいか? 小道具としての剣は、俳優が無対象で表現することにした。そうすれば観客に、剣の無意味さはもちろん、現在の日本では使わないという歴史的な段階も、ひとふりの剣から原爆という壮大な像を手にいれてしまった人間の本質もイメージしてもらうことができる。そして、柳美里の『ゴールドラッシュ』を読んだ観客なら、あの父親殺しの日本刀との接点を思い浮かべるかもしれない。このように今上演は、剣ばかりか、小道具、舞台装置、台詞、衣裳、メイクなどでいらぬ情緒を排除して、その本質を表現することにつとめた。
三澤憲治