宮廷や大臣家での娘の学問は和歌。

①仮名の習字
②琴の演奏
③「古今集」20巻の暗誦
 
 しかし男の学問は漢学だった。
奈良時代の大学の学問の中心は儒学だったが、時代が進むにつれ、史学、文学が独立し、ことに史学が重んじられた。
 三史(「史記」「漢書」「後漢書」)と「文選」とを必修とし、「晋書」の講義があわせて行われる「紀伝道」が確立された。
 紀伝とは「本紀(皇帝の事蹟)」と「列伝(人臣の伝記)」とを扱う学科の意味である。
 紫式部は男の学問である漢籍に通じていた。藤原定家の「源氏物語奥入」でそれを知ることができる。
①伊勢(872~938)の「伊勢集」
 「源氏物語」の書き出し「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」は、「伊勢集」の「いづれの御時にかありけむ、大御息所ときこゆる御つぼねに、大和に親ある人さぶらひけり」と酷似している。
 また紫式部は、「空蝉」で、伊勢の歌をそのまま引用している。
 空蝉の羽におく露の木がくれてしのびしのびにぬるる袖かな
 
②「宇津保物語」
 「七つになりたまへば読書始めなどせさせたまひて、世に知らず聡うかしこくおはすれば、あまり恐ろしきまで御覧ず」「皇子もいとあはれなる句を作りたまへるを、限りなうめでたてまつりて、いみじき贈物どもを捧げたてまつる」。
 これらも、「宇津保物語」の「この七歳なる子父をもどきて高麗人と文を作りかはしければ・・・・・・」から想を得たのか?

③民話の「けり」の用法
 日本最古の物語「竹取物語」は、「今は昔、竹取の翁といふものありけり」。民話の「けり」を使うことによってフィクションというスタンス。
奈良時代は「妻問い婚」であったが、平安時代は「婿取り婚」。

 「妻問い婚」―男が夜になって女の家を訪問して泊まり、翌朝暗いうちに起きて女と別れ、自分の家に帰るという結婚の仕方。
「家はどこ?」「名前は?」これが求婚のしるし。
結婚すると、「主屋」の傍らに「端屋(つまや)」を建てて男を迎え入れる。男はそこに同居するのではなく、夜来て朝帰る、通い婚。子どもが生まれれば、女の一族が育てる。父親は通ってくるだけ。当時は女に土地(財産)が与えられたので、夫に経済的に依存していたわけではない。
男が通わなくなれば離婚。女が門を閉ざしても離婚。離婚によって財産の分与はない。「はなれ」「たえ」「絶え」。こうした「訪婚」の慣習は世界各地に見られた習俗。

 「婿取り婚」―奈良時代から続く通い婚を正式に認めて婿として取るのが平安時代の婚姻の方式。正式な婿とされても男は女の家に住みつくのではなく通うだけ。
 
 家ゆすりて取りたる婿の来ずなりぬる、いとすさまし
 
 光源氏も葵上の正式な婿になったが、波長が合わなかったのであまり行かなかった。
 通い婚は男が一人の女だけでなく何人もの女のところへ通うことも許される。つまり一夫多妻制。重婚は禁止されていたが、それは正妻を二人持つことはできないということで、複数の女に通ってはならないということではなかった。
 平安時代になって、男が女を自分の家につれてくる「すゑ」という結婚の方式が広がった。
 「すゑ」られるのは生活に困窮の女たち。男はそういう女に家を用意して定住させる。「すゑ」られることは一般の風習に反することなので、「すゑ」られた女は低く見られた。しかし、「すゑ」られることは、特定の男の庇護を持続的に受けることができる安心な暮らしである。女としては男の通いがいつ途絶えるかという不安で生活するより、「すゑ」られることのほうが望ましいという考えが生じてきた。これが発展して「嫁取り婚」となる。
 光源氏が紫の上を自分の邸に住まわせて養育したのは、当時としては注目される行動。光源氏が多くの女性を六条院に住まわせたのは、「すゑ」を実現したもので、女の側からすれば安心のできる生活の形である。もっとも三人も四人も「すゑ」るのは物語的な誇張。
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