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広島ハムレット
ハムレット解読
劇中劇「十二夜」について
 
 ハムレットが役者の一団を見て父の殺害場面を役者に演じさせるという原作を、「Hiroshima HAMLET」ではハムレット自身が役者になって演じるというふうに改変した。
 そこで問題になるのが、ハムレットはなんの劇を見て感動の涙を流し、芝居を思いつき自分自身で演じるかということである。ハムレットが見た芝居は質の高い、孤独なハムレットの境遇とリンクするものでなければならない。はじめわたしはシェイクスピアの最高傑作である『リア王』の嵐の場面を想定していたが、俳優の技量不足で断念し、同じシェイクスピア原作の『十二夜』に変更した。
 『十二夜』はこれまで「中高生たちの十二夜」「劇変・十二夜」と上演していて、『十二夜』には、演劇史上に燦然と輝くシーンがあるからである。男装したヴァイオラがシザーリオと名を変え、密かに愛する公爵に、じぶんの姉という架空の人物(実は自分自身)に託して愛を語るところだ。

公爵 シザーリオ、もう一度、あの人のところへ行け! 財産も領地もいらない。おれが惹かれるのはオリヴィアその人だと言ってくれ!
ヴァイオラ(シザーリオ) 愛せないと言われたら?
公爵 聞きたくない。
ヴァイオラ でも聞かなくては・・・もしある女が、あなたを愛し、苦しんでるのに、愛せないと言われたら?
公爵 こんな苦しい恋に耐えられる女なんかいるものか! 女の愛はちっぽけなもの。おれの愛は海のように凄まじい。つまらん女の愛とは比較にならん。
ヴァイオラ でも知っています、わたしは。痛いほど。
公爵 なにをだ?
ヴァイオラ 女の愛がどんなものか! けっしてわたしたち男に劣りません・・・父の娘が、ある男を愛しました。わたしが女なら、あなたを愛したような、深い愛でした。
公爵 ・・・で、どうなった?
ヴァイオラ 白紙のままです。だれにも恋を打ち明けないで、バラのつぼみに巣くう虫が、花の命をむしばんでゆくような片想いに・・・ひとり悩んだのです。 そして、しだいにやつれてゆき・・・蒼ざめた憂いに沈み・・・それでも、石の像のように辛抱強く、悲しみに耐えていました・・・これがほんとうの恋ではありませんか? わたしたち男はやたらと誓いを立てます。でもそれは、見せかけだけのもの。心にもないことばかりで、愛ではありません。
公爵 ・・・
ヴァイオラ 行ってきます。
公爵 ああ・・・

 ヴァイオラは恋の使いに行く。

公爵 (心打たれて)・・・で、その娘は恋に死んだのか?
ヴァイオラ ・・・今はわたし一人です・・・わたし一人しかいないのです。

 このヴァイオラの言葉は、哀切で美しい。だがここで注目すべきは、この言葉の特異な演劇的効果だ。 ここでヴァイオラは、単に公爵に伝わるはずのない愛を告白しているだけではない。実際に舞台に立ちつくしている彼女自身の姿を、じぶんの言語によって形象化しているのである。言いかえるなら、言語のつむぎ出す想像上のイメージが、そのままヴァイオラの姿に投影され、彼女自身がそのタブロー(静止画)となっている。つまり、今舞台に立っているヴァイオラは、そのまま虫に食い荒らされているバラであり、悲しみに耐えている「忍耐の像(石像)」そのものなのである。


盗み聞きの場

 『ハムレット』には、いわゆる〈謎〉が多い。『ハムレット』を上演する場合、わたしたちはこの〈謎〉を解いて、演劇表現を決定しなければならない。「尼寺の場」もこれまで〈謎〉とされてきた場面である。
 「尼寺の場」は、ハムレットが母親への不信から女性憎悪になって、恋人のオフィーリアに「尼寺へ行け」ということから、こういう呼び方をされているが、これでは、劇の本質を言いえた適切な表現ではないので、ここでは「盗み聞きの場」ということにする。
 「盗み聞きの場」は、ハムレットが国王の家臣であるポローニアスの娘オアィーリアに失恋して狂ったらしいので、国王とポローニアスがハムレットとオフィーリアの二人が話すのを盗み聞きして、ハムレットの真意を確めるところである。
 この場でいわゆる「謎」とされているのは、ハムレットはふたりの盗み聞きに気づいたのか、気づいたのなら、それはいつか、それとも、まったく気づかなかったのか、ということである。
 これまでのハムレット上演では、だいたいつぎの二通りの解釈がなされてきたと、小田島雄志は『「尼寺の場」のハムレット』で述べている。

 @ オフィーリアがハムレットに贈物を返すとき、その言葉が韻を踏んでいて形式的であることから、明敏な直観力にたけたハムレットは盗み聞きをされているのを察知したという解釈。(エドワード・ダウデン、G・R・エリオット、C・J・シッスン、大山俊一等)  
 A ハムレットがオフィーリアに尼寺行きをすすめている最中に、アラスの動きを目にして、「父上はどこにいる?」とたずね、盗み聞きするものの存在を知ったという解釈。(ハーリー・グランヴィル=バーカー、J・W・ドレーパー、G・ライランズ、G・B・ハリスン等)

 現にメル・ギブソンも、ケネス・ブラナーも、蜷川幸雄も、浅利慶太も、かれらのハムレットをこの@とAの延長線上で処理している。特に蜷川幸雄は、この場でわざわざキスシーンを設定して、オフィーリアがハムレットにキスされて、そのことを親から見られたと思って慌てるので、ハムレットが盗み聞きの存在に気づくという演出をしている。
 はたして、世界的な大スターやシェイクスピア役者、当代日本の人気演出家の解釈は正しいのか?
 もし、かれらのようにハムレットが盗み聞きに気づいたのなら、この場面は、国王とポローニアスが仕掛けた罠に対して、ハムレットが反対に罠を仕掛けるという二重構造の場面になってしまう。現代人ならまだしも、16世紀のシェイクスピアがほんとうにそんな複雑なことを書きたかったのか?
 もちろんシェイクスピアはそんなことは書かなかった。@の解釈もAの解釈も誤りである。ハムレットは、国王とポローニアスが盗み聞きをしていることに、まったく気づかなかったのである。
 その理由を、小田島雄志はふたつ挙げているが、それをわたしなりに箇条書きにしてみると、

 @ シェイクスピアを代表とするエリザベス朝演劇の特徴として、「盗み聞きの場」にはひとつのルールがある。つまり盗み聞きする者は、そのことを必ず観客に言葉で伝えなければならないということだ。現にハムレットにおいても、ポローニアスはこれから盗み聞きすることを「ここへ娘を連れてきて。陛下とわたしは壁掛けに隠れて二人の様子を」とはっきり言っている。だからこの当時の演劇のルールに従えば、もしハムレットが盗み聞きに気づいたのなら、そのことをはっきりじぶんの言葉で観客に言っている台詞なり傍白があるはずである。ところが原作のどこを探しても、そんな言葉は見当たらない。したがって、ハムレットは盗み聞きに気づいていない。

 A この「盗み聞きの場」を演劇の基本である関係性ということで考えてみると、この場の関係性は〈聞かれる者〉と〈聞く者〉である。そして、この関係性を、劇世界(わたしたちの生活する日常とはちがう幻想の世界)において設定するとどうなるのか?〈聞く者〉は〈聞かれる者〉から何を聞きたいのか? ここで国王とポローニアスがハムレットとオフィーリアとの話から知りたいのは、ハムレットの狂気の原因が失恋のためなのか、それともちがう原因なのかということである。日常の世界では、盗み聞きしている者の期待を裏切って、聞かれる者が何の関係もない話をしたり、なにも言わないで素通りすることもありうるが、劇の世界ではそれは許されない。ひとたび「盗み聞きの場」を設定したのなら、必ずつぎのようなことが実演されなければならない。つまり〈聞かれる者〉は無意識に〈聞く者〉の期待する、あるいは恐れている言葉を言わなければならない。そうでなければ、「盗み聞きの場」は劇として成立しない。演劇の要である関係性から考えても、「盗み聞きの場」は〈聞く者〉と〈聞かれる者〉という、いたって単純な構造でしかないのに、これまでシェイクスピア学者や研究家たちは、それをことさら複雑難解にして、さも「謎」を解いたかのように謬見をふりまいてきた。 「盗み聞きの場」のハムレットの台詞は、小田島雄志がいうように、「観客は知っているのに彼が知らないで言うから、ドラマチック・アイロニーとしておもしろいのである」。

 尼寺の場」は、ポローニアスが仕組み、国王と二人でアラスのかげにかくれ、ハムレットのオフィーリアとのやりとりを立ち聞きする場である。そして、ハムレットの「おれは傲慢だ、執念深い、野心も強い」ということばは、彼から王位を横どりした国王の胸を刺すだろうし、「父上はどこにいる?」という問いかけは、ポローニアスの耳をそば立たせ、「しっかり閉じこめておくのだな、外に出てばかなまねをしないように」と続くハムレットのことばを苦々しく聞くだろう。それは、二人の存在に気づいたからではなく(気づいたならなぜ相手を警戒させるようなことばを吐くか!)、ドラマチック・アイロニーとして言われるのである。
 その結果、国王はハムレットの狂気の原因が「妨害された野心」にあると危険視し、ポローニアスは「拒絶された恋」にあると自説を確認する。それがこの場の劇的な意味である。それを知るのは、ハムレットではなく、観客なのである。 (小田島雄志「詩とユーモア イギリス演劇ノート」)

 小田島の解明したとおりであり、これ以外の解釈はありえないのに、松岡和子は、河合隼雄との対談「快読シェイクスピア」で、ちがう解釈をしている。松岡は、オフィーリアが贈物をハムレットに返すときに、じぶんが訳した「品位を尊ぶ者にとっては、どんな高価な贈物も、贈り手の真心がなくなればみすぼらしくなってしまいます」の「品位を尊ぶ者(noble mind)」という言葉が高慢な感じなので、もっとオフィーリアらしい言い回しに変えようと思って、ハムレット役の真田広之とオフィーリア役の松たか子に、そのことをたずねたところ、

松岡 (前略)そうしたら、松さんが、私はあの言葉は父親に言わされていると思って演っています、と言ったんです。真田さんがそれを受けて、僕はそれを感じるからふっと心が冷えて、裏におやじがいるなと思い、「お前は貞淑か?」って尋ねる、と言うんですよ。私はもうびっくりしてしまってね。言われてみれば、筋が通るんです。一幕三場でオフィーリアはポローニアスに「気ぐらいを高く持て」とかお説教されているんですから。シェイクスピアは台詞の中に役者へのきっかけを埋め込んでいるんです。つまり、ここであやしいと思え、とね。あの場面はつねに問題にされるんです。(中略)ハムレットはそれに気づくのか、気づかないのか。気づくとすればいつなのか。それがつねに問題になるんですよ。だいたいどこかで気づくという演出をとってますけれども、能のない演出家が「気づく」ことを表現しますと、ポローニアスとクローディアスが隠れる瞬間にハムレットが入って来て目の端でちらっと見てしまう、という演出をとったりする。でも、このnoble mindがきっかけだと分かれば、目撃する必要はないんですね。現実にそこに隠れていると気づかないとしても、オフィーリアが自分のことをnoble mind と言った途端に、ハムレットが「ん?」と思うようにできているんだから。これは怪しい、裏に父親がいるな、とね。私が違和感を持ったまま差し出した言葉を、松さんと真田さんはそう読んでくださった。優れた役者ってすごいですよ。私はそこまで読めなかったけれども、オフィーリアらしいと自分で思うように、こなして訳してしまわない程度には、馬鹿じゃなかったなと。(河合隼雄・松岡和子「快読シェイクスピア」)

 はたして松岡の言うとおりであろうか? 
 わたしはそうは思わない。この場は、装飾過多のシェイクスピアの言葉に惑わされずに、ハムレットとオフィーリアとのふたりの関係性、つまり贈物を〈返す者〉と〈返される者〉という関係性で考えてみることだ。そうすれば不明はたちどころに解ける。    それでは、松岡の解釈がいかにこの場の劇的本質からはずれているかを、わたしの台本にあたって示してみる。冒頭部分だけ、比較できるように松岡の翻訳を載せておいた。

ハムレット (有名なTo be,or not to be.の独白後)美しいオフィーリア!森の妖精、僕の罪の赦しもその祈りにこめてくれ。
オフィーリア 殿下。このごろはご機嫌いかがでいらっしゃいますか?
ハムレット ありがとう、元気だよ元気、元気。 オフィーリア 殿下、頂戴したした品々、いつかお返ししなければと思っておりました。どうかお納めください。
ハムレット いや、駄目だ。何もやった憶えはない。
オフィーリア 殿下、よく憶えておいでのはず。優しいお言葉も添えてくださって頂いた品が一層有難く思えましたのに。その香りも失せました。お返しいたします。品位を尊ぶ者にとってはどんな高価な贈物も、贈り手の真心がなくなればみすぼらしくなってしまいます。さあ、どうぞ。
ハムレット ははあ!お前は貞淑か?
オフィーリア え?
ハムレット お前はきれいか?
(松岡和子訳「ハムレット」)

ハムレット 森の妖精、僕の罪も祈ってくれ。
オフィーリア 殿下。最近、お体の調子は?
ハムレット おかげで元気だ。
オフィーリア いただいたもの、ずっとお返ししようと。お受け取りください。
ハムレット 何もやったおぼえはない。
オフィーリア そんな!優しいお言葉をそえてくださったからうれしくて、その香りが消えた今は必要ありません。どうぞ。
ハムレット おまえは貞淑か?
オフィーリア わたしが?
ハムレット 美しいか?
(三澤台本「マイ・ハムレット」)

 松岡が違和感を感じた「品位を尊ぶ者にとっては、どんな高価な贈物も、贈り手の真心がなくなればみすぼらしくなってしまいます」は、わたしの台本では削除している。なぜなら、この高尚ぶった、まだるっこしい台詞は当たり前のことを言っているだけだし、ようするにオフィーリアは贈物はもう「必要ありません」と言いたいだけだからだ。
 この個所で注目に値するのは、そんな言葉ではなく、ハムレットの「何もやったおぼえはない」である。  
 オフィーリアから贈物を返された。しかも恋人のオフィーリアからだ。このときのハムレットの気持ちは、実感で考えてみればすぐわかる。つまり失恋したことがあるものなら、じっさいに贈物を返された経験がなくても、だれにだって想像できる。ハムレットは、ショックで気も動転していると。この気持ちは、おそらくだれでも同じだと思うが、その後の反応となると、人によってちがってくる。ハムレットのように、「何もやったおぼえはない」と言うものもいるだろうし、しかたなく受け取って黙って立ち去るもの、まためそめそ泣くもの、あるいは「思い直して、もう一度愛してくれ」と愛をせがむものもいるだろう。この千差万別にある反応から、シェイクスピアは、ハムレットに「何もやったおぼえはない」と言わせることを選択した。ここに劇的な意味がある。
 贈物を返されたハムレットは、あまりのショックに気も動転する。恋人に贈物を返されたという事実を認めたくない。だから贈物はしてないという意味で「何もやったおぼえはない」というが、それでもなおオフィーリアが「そんな!優しいお言葉をそえてくださったからうれしくて、その香りが消えた今は必要ありません。どうぞ」と、贈物を受け取るよう催促するので、傷つけられた心はさらに刺激されて、オフィーリアを憎らしくなる。そしてオフィーリアを母の像とたぶらせる。
 目の前にいるのは、もはや「天使のごとき、わが魂の偶像 美の化身たる(松岡和子訳)」オフィーリアではない。偶像は母と同じように地に堕してしまった。だから「おまえは貞淑か?」「美しいか?」と訊くのである。  
 このように、ここのハムレットは、失恋の痛手があまりに大きいために、オフィーリアのことしか頭になく、真田がいうように「裏におやじがいるな」などとは到底おもえるはずがない。そんな気を回す余裕などまったくないのだ。
 火に油を注がれたハムレットの憎悪は、さらに加速度を増していく。

オフィーリア なぜそんなことを?
ハムレット おまえが貞淑で美しいなら、その二つは一緒にさせないほうがいい。
オフィーリア 美しさと貞淑は、よい取り合わせでは?
ハムレット いや、美しさが貞淑な女を不倫に陥れる。
オフィーリア ・・・
ハムレット ・・・おまえを愛してた。
オフィーリア わたしも・・・そう信じてました。    

 ハムレットはオフィーリアにキスをしようとする。オフィーリアは目を閉じる。
 その顔にハムレットは言葉を吐きつける。

ハムレット 残念だな。愛してなんかいなかった。
オフィーリア そんな。      

 ハムレットが「愛していた」と言って、すぐに「愛してなんかいなかった」と否定するのは、オフィーリアに贈物を返されたことへの報復だが、こういうところにわたしはハムレットの幼さを見てしまう。ハムレットは大人になれない少年である。この少年の潔癖性は、オフィーリアを否定するばかりか、女そのものを否定し、オフィーリアを不倫の母にダブらせる。オフィーリアはじぶんを裏切った。もう孤独のじぶんを助けても、励ましても、むろん愛をささやいてもくれない。やっぱり、おまえは母と同じように、父が死んだらその弟と結婚するような女だ。その美しさの中には邪淫が隠れている。お お、反吐が出る。

ハムレット 女なんかやめてしまえ!なぜ罪深い人間を生みたがる? おれはこれでもまっとうなつもりだが、それでも母が産んでくれなければよかったと思うほど罪深い人間だ。 傲慢で、執念深く、野心満々、想像だけでまだ実行できない罪を抱えている。そんな男が天地を這いずり回って、いったい何ができる?おれたちはみんな悪党だ。だれも信じるな! 女なんかやめてしまえ!親父はどこにいる?
オフィーリア (秘密がばれるのではないかとおどおどして)家に。
ハムレット じゃあ、閉じこめておけ!外でバカな真似をしないようにな。
オフィーリア ・・・
ハムレット もし結婚するなら、持参金代わりに呪いの言葉をくれてやる。おまえが氷のように貞淑で、雪のように清純でも、世間はなにかと非難する。女なんかつまらんもんだ!どうしても結婚したいなら、バカとしろ。利口なやつは結婚なんかしないからな。おまえたち女は、顔を塗りたくり、神からさずかった顔を作り変える。尻を振り、甘ったれて、「知らなかったわ」などとぬかす。(キレて)もうがまんできん!おかげで気が狂った!ええい、結婚など、この世から消えてなくなれ!すでに結婚してる者は許す!生かしておいてやる。あのひと組以外はな。他の者は生涯独身でいろ!
 
 ハムレットは贈り物を投げつけて退場する。オフィーリアは、ハムレットが投げ捨てた贈り物を見るだけ、ショックで言葉にならない。
(三澤台本「マイ・ハムレット」)    

 ハムレットが、オフィーリアの父の居場所をたずねたり、結婚を否定したり、母と国王を抹殺したいと叫ぶのは、いうまでもなく、盗み聞きしているポローニアスと国王にあてつけているのではなく、オフィーリアから贈物を返されて傷ついた恋心が、激しい憎悪となって噴出するからだ。これは、ハムレットが母に対して抱いている嫌悪が、オフィーリアを含めて女性への憎悪となることを示しているが、ハムレットの憎悪が凄まじいのは、あくまでも恋人に贈物を返されたショックの反作用であり、ショックが大きければ大きいほど、憎悪が凄まじくなるのは当然のことである。
 このように、ここはハムレットのオフィーリアに対する愛がいかに強かったかを、逆説的に示す場である。この逆説によるハムレットの愛を表現しなかったら、観客はハムレットが独白で言う「かなわない恋の苦しみ」も、オフィーリアの死を知って涙ながらにいう「おれは愛してた、愛してた、オフィーリアを愛してた」も、劇的実感を持って聞くことはできない。シェイクスピアは、松岡が言うように、「台詞の中に役者へのきっかけを埋め込んでいる」のではなく、台詞の中に〈劇中人物〉のきっかけを埋め込んでいるのだ。
ふたつの劇中劇
 
 ハムレットは、父の亡霊から、父は庭で昼寝の最中に弟のクローディアスに毒殺され、国王の座と王妃ガートルード(ハムレットの母)を奪われたことを聞かされ、復讐を命じられる。ハムレットは狂人のふりをしてその機会をうかがうが、やがて亡霊が疑わしくなり、復讐をためらってしまう。

ハムレット 俺が見た亡霊は悪魔かもしれない。悪魔には変化の力があり人の喜ぶ姿を取るという。もしかしたら俺が気弱になり、憂鬱症にかかっているせいかもしれない。悪魔はそこにつけこんで俺を惑わし、地獄に落とそうというのか。 (松岡和子訳「ハムレット」)  

 亡霊が悪魔ならば、現在の王であるクローディアスは父を殺していないことになる。王はほんとうに父を殺したのか? 亡霊の言葉を信じて復讐していいのか? もしかしたら亡霊は実在したのではなく、憂鬱症による幻覚だったかもしれない。ハムレットは、これらの確証を得るために王の反応を見ようと、父が毒殺されたときの様子を芝居にすることを思いつく。芝居は、はじめは黙劇で、つづいて台詞劇で上演される。  

 トランペットの吹奏に続き、黙劇が始まる。王と王妃が登場し、互いに抱き合う。王妃はひざまずき、愛の誓いを立てるしぐさをする。王は妃を立ち上がらせ、その首すじに頭をもたせかける。王は花の咲く堤に身を横たえる。王妃は王が寝入ったのを見届けて立ち去る。ほどなく一人の男が現れ、王の頭から王冠を取り、それに接吻し、眠っている王の耳に毒を注ぎ、その場を去る。王妃が戻ってき、王が死んでいるのに気づいて激しく嘆く。毒殺者が三、四人の者を従えて再び現れ、王妃と共に悲しむふりをする。死体は運び出され、毒殺者は王妃に贈り物を差し出し求愛する。王妃はしばらくはつれない素振りをするが、遂にその愛を受け入れる。退場。

オフィーリア 殿下、いまのはどういうことでしょう?
ハムレット いやあ、たくみな悪さ、悪だくみさ。
オフィーリア このお芝居の粗筋のようですけれど。    

 序詞役登場。

ハムレット こいつが教えてくれる。役者に秘密を守れと言っても無理だ、何でも喋ってしまう。
オフィーリア いまの黙劇の意味も?
ハムレット うん、それにお前が見せればどんなことでも目撃するとさ。平気で見せさえすれば、こいつも平気で猥褻な解説をしてくれる。
オフィーリア いけません、そんないけないことをおっしゃって。私は芝居を見ます。
序詞役 われらの演じますこの悲劇、なにとぞ寛恕を賜りましてご静聴のほど、臥してお願い申し上げます。(退場)
ハムレット これが前口上か、指輪に刻んだ銘か?
オフィーリア ほんとうに短いこと。
ハムレット 女の愛と同じだ。  

 劇中の王と王妃登場。

劇中の王 陽の神フィーバスの御す馬車は、早や三十たび 海神ネプチューンの潮路を越え、地の神テラスの陸を巡り 三十を十二重ねしあまたの月 は、日輪の光を借り 三十を十二重ねし幾多の歳月、この現世を照らしたもう。その始め、われらの心は愛に結ばれ われらの手は婚姻の神ハイメンの聖なる絆で結ばれり。
劇中の王妃 こののち更に陽も月も、われらの愛の果つるまで 長き旅路をたどらんことを。それにつけても胸が痛む、近頃はご気分もすぐれず かねてのお元気もどこへやら、面変わり召され 気がかりでなりませぬ。とは申せ、わたくしの気がかりなど 何ほどのこと、どうかお案じなさいますな。 女子の気がかりと情けとき常に連れ添うもの、どちらの思いも知らずにすむか、二つながら度を越すか。わたくしの愛がいかほどか、おのずから表に現れご存じのはず。愛が深まるにつれ気がかりも深まります。愛がつのるとき、些細な不安も恐れとなり 些細な恐れの極まるとき、愛も大きく育つもの。
劇中の王 いや、余がそなたに先立つは必定、しかも遠からず。身も心も弱りはて、命脈も尽きた。そなたはこの麗しき世に残り 敬われ慕われ、ながらうるがよい。この身に劣らず情けある人を夫に迎え―
劇中の王妃 おお、その先は聞きとうない。そのような愛はこの胸の裏切り。二夫にまみゆるならいっそ呪われたい。二度目の夫を迎うるは、初めの夫をあやめし女。
ハムレット (傍白)苦いぞ、いまの言葉。
劇中の王妃 再婚をそそのかすは利得を求むる卑しい心、決して愛ではございませぬ。しとねにて二度目の夫の口づけを受くるは亡き夫をば二度までも殺すに等しい。
劇中の王 そなたの心、言葉どおりと信じよう。されど、いかに堅き決意とて、とかく破るが人の常。志とて所詮は記憶のしもべにすぎず、産声は高らかなれど生いたつ力は覚束なく 今でこそ枝を離れぬ青き果実も、熟すればおのずから地に落ちん。自らに課したる負債は 支払を失念するは当然。熱き思いにて目指せしことも 思いが冷めれば消え失せる。悲しみも歓びも、その激しさの極みにて 企てしことを打ち壊す。歓びの頂きに達するところ、悲しみは奈落に落ち、些細なことで悲しみは歓びに、歓びは悲しみに姿を変える。この世は無常なれば、われらの愛とても 時の運と共に移ろおうと何の不思議もありはせぬ。愛と時の運、いずれがいずれを導くか これぞ未だ解きえぬ問い。位高き者、低きに落つれば寵臣も逃げ去り 貧しき者、地位が上がれば敵も味方に変ず。かくのごとく愛は時の運に従う。順境にある者、友にこと欠かず、逆境にある者、実なき友をためし頼らばちまち敵に豹変す。とまれ初めに立ち戻り話を結べば、われらの意志と時の運とは互いに背きわれらの意図は常に覆される。思いは我がものなれど、その実りは我がものならず。二夫にまみえぬそなたの決意も 最初の夫の死とともに死に絶えよう。
劇中の王妃 いいえ、たとえ大地が糧を恵まず、天が光を与えず、昼の楽しみ、夜の安らぎを奪われ、信頼と希望が絶望に変わり、先ざき獄につながれ世間との交わりを断たれようと、歓びの顔を蒼ざめさせるありとあらゆる災いが幸多かれとの願いを打ち滅ぼし、この世のみかあの世まで永劫の苦しみがつき纏おうと、ひとたび寡婦となれば二度と妻にはなりませぬ。
ハムレット もしも今あの誓いを破ったら。
劇中の王 よくぞ誓った。愛しい妃、しばらく退ってくれ。気が疲れた。もの憂い午後のひと時 眠りで紛らわしたい。
劇中の王妃 眠りがおつむをあやしてくれますよう。禍事がわれら二人を裂きませぬよう。(退場。王は眠る)
王妃 あのお妃の誓いはくどすぎるようね。
ハムレット いや、誓ったことは守るでしょう。
 筋書きは聞いているのか? さしさわりはないだろうな?
ハムレット いえ、いえ、ごっこ遊びみたいなものです―毒殺ごっこ。さしさわりなどありません。
 外題はなんというのだ?
ハムレット 「ねずみ取り」―うん、実にいい比喩だ!この芝居、ウィーンで起きた殺人がもとになっていて―大公の名はゴンザゴー、大公夫人はバプティスタ―すぐに分かります。実にふらちな企みだ、だがそれがどうした。陛下や、心に疚しいところのない我々には。痛くもかゆくもない。脛に傷もつ馬こそひるめ。傷のない身は平気の平左。    

 ルシアーナス登場。

ハムレット この男はルシアーナスといって、王の甥です。
オフィーリア 語り手のようによくご存じですね。
ハムレット 人形劇の濡れ場を見せてくれれば、その人形をお前とお前の恋人に見立て、二人の仲を語ることだってできる。
オフィーリア いけません、殿下、そんないけないことをおっしゃって。
ハムレット もっといけないことをしたら、お前は痛がってうめくだろう。
オフィーリア もうおやめになって。
ハムレット 病めるときも、などと言って夫を迎え、たぶらかす。―さっさとやれ、人殺し。もったいぶったしかめ面はやめて、始めろ。さあ、「しわがれ声の大ガラス、復讐せよと叫びたり」。
ルシアーナス 暗い企み、腕は鳴る、毒も整い、時は今 折りよくあたりに人目もなし。闇夜の草より絞りし毒薬 魔女の呪いを三たび受け、三たび毒気を吹き込まれ、汝が恐ろしき天然の、魔力こもりし猛毒で健やかなる命、ただちに奪え。(眠る劇中の王の耳に毒薬をそそぐ)
ハムレット 庭園で王を毒殺し、王位を奪うのです。王の名前はゴンザゴー。この話は今も残っていて、選り抜きのイタリア語で書かれている。さあ、もうすぐあの人殺しはゴンザゴーの妃を口説き落します。
オフィーリア 王様がお立ちになる。
ハムレット ほう、空砲におびえたか?
王妃 あなた、どうなさったの?
ポローニアス 芝居は止めろ。
 明かりを持て。奥へ。
ポローニアス 明りだ、明りだ、明りだ。(ハムレットとホレイショーを残し、全員退場)
(松岡和子訳「ハムレット」)  

 黙劇ではなにも反応しなかった王が、台詞劇の毒殺場面で席を立ち退座してしまう。この王の反応を見て、ハムレットは亡霊の言葉は真実であり、王が父を毒殺したことを確信する。  
 ここで「謎」とされていることがある。それを挙げてみると、

 @ なぜ同じような内容の劇が、〈黙劇〉と〈台詞劇〉として、二度も繰り返されるのか?

 A なぜ王は、黙劇の毒殺場面で反応しないのか?

 B なぜ王は、台詞劇の毒殺場面で退座するのか?  

 これらの「謎」を解くためには、まずこの場面を〈芝居〉と〈劇中の現実〉とに区分けしてみる必要がある。この場面はつぎのようにわけることができる。

●芝居(黙劇)
●劇中の現実(オフィーリアの反応)
●芝居(台詞劇・王妃の誓い)
●劇中の現実(ハムレットの母へのあてつけ)
●芝居(台詞劇・王妃の誓い)
●劇中の現実(ハムレットの母へのあてつけ)
●芝居(台詞劇・王妃の誓い)
●劇中の現実(王妃の反応)
●ハムレットの割り込み(劇中の暗殺者ルシアーナスの紹介)
●劇中の現実(オフィーリアをからかう)
●ハムレットの割り込み(人殺しの催促)
●芝居(台詞劇・ルシアーナスの独白と毒殺場面)
●ハムレットの割り込み(亡霊の言葉の再現)
●劇中の現実(王の反応・退座)  

 このように、この場面は、〈芝居〉と〈劇中の現実〉とが交互に展開され、途中から〈ハムレットの割り込み〉が加わり、芝居は〈黙劇〉と〈台詞劇〉にわけられ、さらに台詞劇は〈王妃の誓い〉と〈王の毒殺〉の、いわゆる2場構成になっている。なぜ台詞劇が2場構成になっているかというと、台詞劇は黙劇の場割に従っているからである。次の表のように、黙劇は3場の芝居と見ることができ、台詞劇はそれを言葉によってさらに具体化したものである。

芝居の形式 黙劇 台詞劇
芝居の内容 1場―王妃の誓い
2場―王の毒殺
3場―毒殺者の求愛と王妃の受け入れ
という3場の無言劇
1場 2場
黙劇1場
(王妃の誓い)の言葉による具体化
黙劇2場
(王の毒殺)の言葉による具体化
劇中人物の反応 劇中の観客は、オフィーリアと同じで、芝居のあらすじだと思うが、無言で演じられることによって集中でき、芝居の全容を鮮明に記憶することができる。 母は、「あのお妃の誓いはくどすぎるようね」というように、じぶんのことがあてつけられていると思う。 叔父は、毒殺場面を観て席を立って退座する。

 だからこの黙劇の場割に従うなら、本来は台詞劇も3場(毒殺者の求愛と王妃の受け入れ)まで上演されるはずであるが、王が退座し、ポローニアスが芝居を止めたために上演されなかったのである。  それでは@の謎から見てみよう。

@ なぜ同じような内容の劇が、〈黙劇〉と〈台詞劇〉として、二度も繰り返されるのか?
   
 それは、〈黙劇〉と〈台詞劇〉の表現特性のちがいにあるといえる。いうまでもなく〈黙劇〉は、身振りだけの劇だが、〈台詞劇〉のように言葉で意味を明確に伝えることができないかわりに、「含み」を持たせることができる。そして動作を簡略化できるから、〈台詞劇〉よりはるかに「短時間」で筋を結末まで見せることができる。ハムレットはこの特性を利用したのだ。なぜなら、王は芝居が気に入らない場合、いつでも席を立って芝居を中止させることができる。いきなり劇の意味が明確になる台詞劇を上演したのでは、王に中止にされる危険があるからだ。そして四面楚歌のハムレットにとって、王に毒殺場面を見せる前に、劇中の観客(つまり王の臣下)に芝居の全容(王妃の誓い、王の毒殺、毒殺者の求愛と王妃の受け入れ)を見せ、「父は毒蛇に噛まれて死んだのではなく、王に毒殺された」ことを想い描いてもらいたかったからだ。それには短時間で上演できる黙劇が最適だったのである。  
 芝居の前に演じられる黙劇は、エリザベス朝における芝居上演の際の慣行で、シェイクスピアの時代にはすでに古風な表現形式になっていたが、シェイクスピアはそれを、芝居の全容を短時間の間に鮮明に映し出す〈だんまりの劇〉として利用した。だからこの場面の黙劇は、エリザベス朝演劇の通例の黙劇とはちがって、台詞劇とまったく同じ内容と筋とが具体的に表現されているのである。よって黙劇はカットすることはできないのだ。  
 つぎにAの〈謎〉はどうか?
 
A なぜ王は、黙劇の毒殺場面で反応しないのか?    

 〈黙劇〉での王の反応についてシェイクスピアはなにも書かなかったが、王が酔っ払ったり、居眠りしたりせずに毒殺場面を観たのなら、なんらかの反応を示すのが自然であろう。だが王は、まだこの段階では毒殺場面が演じられても偶然の一致としか考えられず、よもやじぶんの犯罪がハムレットに知られているとは夢にも思わなかったのである。だから王は余裕綽々で平静を装うことができたし、たとえ心が乱れたとしても、ハムレットやホレイショーが気づくほどの反応ではなかったのである。  
 最後にBの〈謎〉はどうか?

B なぜ王は、台詞劇で反応するのか?    

 これは、台詞劇(一場)が終わってからのハムレットの心の動きを、順を追って考えていけば解決できる。はじめの台詞劇(一場)は、母にあてこんだ芝居でもあるので、ハムレットは芝居が終わると、真っ先に母(王妃)の感想を聞く。案の定、母はじぶんのことがあてつけられていると思うので、誓いがくどすぎるという。ハムレットの憂鬱の原因のひとつには、母が父との誓いを破ってクローディアスと結婚したことにあるので、ハムレットは「誓ったことは守るでしょう」と母に皮肉をいう。王は、そんな王妃を気づかって「筋書きは聞いているのか?さしさわりはないだろうな?」とたずねる。この王の問いでハムレットが心配したのは、芝居の中止である。ここで芝居を終えられたら、王に肝心の毒殺場面を見せることはできない。それでは元も子もないから、ハムレットは芝居が続行できるように、狂人のふりをして「ごっこ遊び、毒殺ごっこ」と茶化す。王はさらに「外題はなんというのだ?」とたずねる。ハムレットは「ゴンザゴー殺し」とは答えない。「ねずみ取り」という比喩を使い、ウィーンで起きた殺人事件を芝居にしたものだという。そこへルシアーナスが登場する。ハムレットはルシアーナスを「王の甥」と紹介する。ふつうに考えれば、劇中の王を殺すルシアーナスはクローディアスのことだから、「王の弟」というのが自然なのに、ハムレットは「王の甥」と言う。なぜだろう?これは「毒殺ごっこ」から派生してきたもので、ハムレットが狂人を装いながら、じぶんの願望を言った言葉だと理解すればいい。(下表参照)

王の質問と
ルシアーナスの紹介と芝居の催促

本来言われるべき言葉

実際に言った言葉(ハムレットの願望)

さしさわりはないだろうな?

あります

「毒殺ごっこ」

外題はなんと言うのだ?

ゴンザゴー殺し

ごっこではなく「ねずみ取り」

ルシアーナスの紹介

王の弟です

「ねずみ取り」王を生け捕るのはハムレット

もったいぶったしかめ面はやめて、始めろ 沈黙

「王の甥」は「復讐せよと叫びたり」


 表をみると、王は芝居の内容について質問しているのに、ハムレットは本来言うべきことを言わないで、じぶんの願望をいっている。つまりわたしたちにはハムレットが言葉遊びをしているように見えるが、ズバリ本音を言っているのである。イギリスの学者ナイジェル・アレグザンダーがいうように、ハムレットはここから、叔父(クローディアス)を殺すじぶんと劇中のルシアーナスとを一体化させていく。ここには過去に行われた王殺しと未来に行われるはずの王殺しが共存しているのである。 
 つづいてオフィーリアが「語り手のようによくご存じですね」と図星をつくものだから、ハムレットはわれに返って、芝居とはまったく関係ない猥褻な話をして、なんとかこの場を切りぬける。ハムレットには猶予がない。早く毒殺場面を王に見せて、かれの反応を見なければならない。このハムレットのあせる心が、「さっさとやれ、人殺し。もったいぶったしかめ面はやめて、始めろ」という台詞になって現れる。そしてここでまた、じぶんの願望をいう。「しわがれ声の大ガラス、復讐せよと叫びたり」。ハムレットはもはや「演出家兼観客」ではない。役者そのものであり、舞台という境界線を越えてしまっている。  
 ルシアーナスが口を開く。「魔力こもりし猛毒で、健やかなる命、ただちに奪え」。ルシアーナスは劇中の眠る王の耳に毒薬をそそぐ。この情景だけではハムレットには不足だ。そこで役者ハムレットは語りをかぶせる。「庭園で王を毒殺し、王位を奪うのです。王の名前はゴンザゴー。この話は今も残っていて、選り抜きのイタリア語で書かれている。さあ、もうすぐあの人殺しはゴンザゴーの妃を口説き落します」。王は、この毒殺の情景を見ながら、兄殺しが芝居にされているだけでなく、ハムレットが復讐のためにこの芝居をたくらんだことに気づく。王の耳にはハムレットの語りが執拗に飛び込んでくる。目の前ではじぶんが犯した兄殺しが再現されている。王は、この視覚と聴覚の両方からの攻撃によって、否応なしに兄殺しの実景を思い浮かべる。悶え苦しんで死ぬ兄。王の手が震えだす。あの毒を注いだ手がだ。震える手は、止めようとしても止められない。「早く、兄の死骸から立ち去らなければ」。王は殺害の現場から逃れる。オフィーリアが真っ先に気づく。続いて王妃も夫の様子を不審がる。王は、「明かりを持て。奥へ」といって去る。
 このように王が台詞劇(二場)の途中で退座したのは、ルシアーナスと語り手である役者ハムレットの迫真の演技によって、兄殺しの実景が思い浮かび、劇中の王を兄と取り違え、一刻も早く兄の死骸から逃れたかったからである。そう考えなければ、ハムレットが芝居を思いつくときにいう「罪を犯した者が芝居を見ているうちに、真に迫った舞台に魂をゆさぶられ、その場で犯行を自白した」とはつながらないし、劇として成立しないのだ。

ハムレット 役者とは摩訶不思議なものだ。たかが絵そらごとなのに、かりそめの情熱に打ち込み、全身全霊をおのれの想像力の働きにゆだねる。そのあげく顔面は蒼白となり、目には涙を浮かべ、表情は狂おしく、声はかすれ、一挙一動が心に描く人物をまざまざと映し出す。なんのためだ?ヘキュバのため!ヘキュバはあの男にとって何だ?あの男はヘキュバにとって何だ?あんなに泣いたりして。もしもあの男に俺と同じ動機があり、怒りを噴き出すきっかけが出たら、一体どうするだろう。舞台を涙でひたしすさまじい台詞で観客の耳を引き裂くだろう。罪ある者の気を狂わせ、罪なき者をおののかせ、何も知らない者を呆然とさせ、目と耳を疑わせるだろう。

 役者の演技に感服したハムレットにとって、役者と拮抗できるのは、みずからが役者になって演じることだった。案の定、王は目と耳を疑い、「気を狂わせ」て退散したのだ。  このように、シェイクスピアがこの場で意図したのは、芝居は罪人の悪しき心をも浄化させることができるものだが、それはなによりも役者の演技によって成し遂げられる ということであり、ここで重要なのはつくりものの芝居からクローディアスが兄殺しの実景を思い浮かべるように、虚構の世界が現実の世界を凌駕することをシェイクスピアが着目したということである。

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